言葉としては大分使われるようになったサイコパス。
一般的な言葉として浸透しつつある中で、
・サイコパスって何者?
・どんな特徴の人がサイコパスなの?
こういった疑問を持つ方もいるかと思います。
せっかく心理学を学んでいるのだから、こういった疑問に正確で納得のできる簡潔な答えを示したい!
と思っていたのですが、結論から言うと無理でした。
なぜなら、サイコパスには多面性があり、実社会の中でその特徴は無方向に発揮され、それぞれ全く別の結果(人生)を生み出すということが分かっているからです。
「簡単にいうとサイコパスは○○という特徴を持つ人」といったように簡略的な説明をすることは難しいです。
ですので、学問的にわかっていることの一部をよみものとして書いてみようかなと思います。
いきなりですが、有名な思考実験である「トロッコ問題」というものを紹介します。
(※このトロッコ問題は過激な状況設定がなされていますが、この手の思考実験は主に功利主義(最大多数の最大幸福)を測定するために作られたものです。)
トロッコ問題にはいろいろなものがありますが、ここでは本質的な倫理的ジレンマを扱ったものとして哲学者ジャーヴィス・トムソンが出題したものを紹介します。
鉄道のトロッコが爆走している。その進行方向の路線の上に5人の人間が縛られて動けない状態でいる。あなたは、この状況を線路の上にかかる橋の上から見ていた。すると、同じようにその状況を眺めている大柄な男がいることに気づく。あなたが5人を救う唯一の方法は、その男を橋から突き落とすことだ。もし突き落とした場合、本来死ぬはずではなかった1人が死んでしまうことになる。一方突き落とさなかった場合、運命的に仕方のなかった5人が死んでしまうことになる。
あなたは、何もしないだろうか?目の前の大柄な男を突き落とすだろうか?
何度読んでも究極のシナリオだと思います。
このトロッコ問題には、路線の分岐点でスイッチを切り替えトロッコの進行方向を変えるか変えないか?という上記とよく似たシナリオもあります。このシナリオの場合も、もし切り替えなかった場合は5人が死に、切り替えた場合はその先にいる別の1人が死ぬことが代償として伴うという選択肢になり、天秤にかける命の数は上記と同じです。
上記と明確に異なる点は、5人を助けるために行使できる手段が、スイッチを切り替えるのではなく、自分の手を直接使わなければならないという点です。(この点が今回ポイントになる点でもあります。)
ここから先は、「シナリオ①⇒大柄の男を落とすか否かを選択する場面」、「シナリオ②⇒スイッチを切り替えるか否かを選択する場合」として話を進めていきます。
哲学であるならば、このような思考実験に答えは出さず、議論を深めて徹底的に考えるということを目的とするのですが、心理学ではこの思考実験を題材として使い、ある問題の答えを導き出そうとします。
それが、まさにサイコパスならどうするか?ということに使われたということです。
では、サイコパスは上記の倫理的ジレンマにどのように回答したでしょうか?
トロッコ問題においてサイコパスは、シナリオ①でも、シナリオ②でも議論の余地なく、1人を犠牲にすると即答したのです。
ちなみに普通の人は、シナリオ①の場合はよりためらわれ、5人が犠牲になることを見届けることしかできないという回答が圧倒的に多数でした。シナリオ②の場合も回答にばらつきはややあるものの、選択するまでにじっくりと時間をかけ悩みながら選ぶという特徴がありました。そしてスイッチを切り替えて1人を犠牲にすると回答した人も、仕方なくそうするといった様子でした。
功利主義は民主主義の中では合理的であるといえます。しかし、トロッコ問題の場合は人の命を題材に扱っており、合理性と感情的モラルのどちらが重要かという究極の選択なはずです。普通であるならば混乱します。
しかし、サイコパスは、合理性と感情的モラルを天秤にかけた時、悩む暇もなく合理性を選択できたのです。
多くの研究者により、この違いは扁桃体の機能の鈍さだと指摘されています。
扁桃体とは人間の情動を司る部位です。恐怖や不安、悲しみや喜びなどあらゆる情動を処理する機能を担っています。共感の回路とも呼ばれています。シナリオ①を読んだときには、扁桃体の機能が通常ならは活発に働きます。
サイコパスはシナリオ①を読んだ際に、悩む暇もなく1人を犠牲にする方を選びました。
これは、大柄の男に対する著しい共感力の欠如のためだと考察されています。これは、つまり扁桃体の機能が鈍いということになり神経科学的にも概ね決着がついている事実です。
つまり、サイコパスの特徴の1つ目をあげるとしたら、共感力の欠如(扁桃体の機能の鈍さ)です。
シナリオ②のジレンマは、直接は手を下さないがスイッチを切り替えるという能動的な行為をすることにより、5人のために1人を犠牲にするかというものでした。
この場合、サイコパスはもちろん1人を犠牲にすると回答しました。しかし、サイコパスでない人もシナリオ①に比べたら1人を犠牲にすると回答した人数は多かったそうです。
これは、前頭前皮質などの部位の機能が影響しているといわれています。
つまり、前頭前皮質の機能が高いと、1人を犠牲にする方が良いと考える可能性が高くなるということです。
この部位は、合理性や客観性を司る部位だということがわかっています。トロッコ問題の場合、多くの人が助かるのなら、1人が犠牲になるのは仕方のないことと考えるということです。
サイコパスもまさにそっちのタイプでした。
つまり、サイコパスのもう1つの特徴は、冷静で合理的、なおかつ客観的(前頭前皮質の機能が高い)というものになります。
ここまで、サイコパスの特徴として、非情さと合理性をあげてきました。
このようにサイコパスには、生物学的な特徴があるのです。
約100人に1人の割合でサイコパスが存在するというデータがあるのですが、この数字をみて僕は割と多いなと思いました。
本当にサイコパスとしての能力を発揮している、あるいはしてしまっている人は1%もいるでしょうか?
僕の肌感覚としてはノーです。
サイコパスの人すべてが、本当にその遺伝的能力を社会に還元したらおそらく世の中の景色が変わっています。
なぜなら、非情さと合理性を神経科学レベルで備えているサイコパスは、社会的レベルで見た時の実質の能力として次の2つの結果しか生まないからです。
①:標準偏差を何個分も突き放した犯罪者になる。
②:標準偏差を何個分も突き放した成功者になる。
①は、一般的なサイコパスのイメージそのものです。共感性の著しい欠如に加えて、自分の目的のために合理的な判断が取れるという能力で、人の痛みに気付かない行動をとった結果として犯罪者になります。
②も実は途中までの心の過程は全く同じであるということが分かっています。しかし、目的が違います。①の場合目的は「人を傷つける」や「人をおとしめる」といった社会的に望ましくないものです。しかし②の場合は「お金を儲けてやる」とか「国家を変える」とった使い方によっては英雄になれるような志を持ちます。①と②は両者ともにとうてい普通の人が持たないような量の、願望であり根性であり忍耐です。
しかし、そこにコミットする行動力と一転集中する熱量がないとサイコパスとしての特質は社会に良くも悪くも還元されませんよね?
このことを考えると、標準偏差何個分もはなした成功者や犯罪者は世の中に1%もいるでしょうか?
成功者や犯罪者であってもサイコパスでない場合もあると考えると、多すぎる気もします。
本当のサイコパスは、非情さや合理性を兼ねそろえた上に行動力があり自分の目標1点に永遠にこだわり続けるということになります。まったくもってブレないメンタルの強さを持っています。
本当に1%もいるのかはわかりませんが、サイコパスのイメージはつかめません。
あまり身近には存在しない気がします。
単純計算して、牢屋に0.5%、大富豪の中に0.5%と考えると普通の正解に身近にいるものではないのではないかというのが僕の主張です。
ここまで書いてきての僕の結論は、本当の意味でサイコパスがどんな人かわからないというものです。
サイコパスの特徴として、この記事では「共感能力が低い」とか「客観的で合理的」などというものをあげてきました。また、書籍や論文を読んでみても「説得が上手い」「カリスマ性がある」「遠くから見ていると魅力的」「知的で有能」「冷酷で冷淡」などたくさんの特徴があることがわかります。
しかし、当たり前の事実として特徴がある=かならずサイコパスなんてことはありません。逆に行動レベルの特徴はなくても神経科学的にはサイコパスに似た機能を持っている人もいます。
つまり、本当のサイコパス議論はかなり複雑なものなのではないか?という考えだけが残ります。
どんなに考えても分からないので、誰か論破してください!!
サイコパスについては結局よくわからないまま終わってしまったのですが、僕がサイコパスを学んでいく中で手に入れた大事な考え方があります。
せめてそれだけでも伝わればこの記事を書いた意味があるのかな?と思うので紹介させてください。
「サイコパスってなぜいるのだろう?」(神様が作ったサイコパスはあくまで上記の内容で説明した神経科学レベルのサイコパスです。)
こんな疑問から深く考えてみました。
この疑問に対する僕の答えは以下の通りです。少し長くなりますがお付き合いいただけたら嬉しいです。
<僕の答え>
心理学には「アダプティド・アドバンテージ」という言葉があります。
変化に適応するための優位性という意味です。
当たり前ですがこの地球上には人間だけが住んでいるわけではないので、人間にとって不都合な状態に環境が変化することがあります。その変化に適応しなければ種が存続できないので、人間自体が今までの行動や信念を変えなければならない状況になります。
そんな時、多くの人が良いと思う行動をとっていてはダメです。なぜなら変化できないからです。良いものをわざわざ変化させる必要なんてないですから。
そんな時、救世主になれるのが変化が必要なかった時代に生きづらさを感じていた人です。変化がいらない時には少数派で軽蔑されたような特徴が変化が必要になった時には能力に化けるわけです。
例えば、今の社会では明るくて積極的な人が求められがちですが、外敵から身を守らなければならない状況になったらネクラで暗いくて消極的な人のほうが評価されやすくなるといった感じです。
サイコパスも全くこれと同じで、本当に革命しなければならない状況に人間が追い詰められた時には「共感がどうだ」とか「合理性じゃなくて感情で動くのが人間だ」などと言っている場合ではなくなります。そんな時、時代を打破するのはサイコパスの人でしょう。
進化論的に言えば、淘汰されてない特徴はすべて人間全体から見て生き延びるために必要な能力だから生き残っている。ただそれだけの話です。
この点をマクロな視点から見ると、自分がネガティブだと思っている特徴(サイコパスはもちろんサイコパス以外も)は社会に間違いなく必要だということ。
ミクロな視点から見ると、その能力は、人間全体のために使わないといけない大切な能力であるということです。
つまり、もしあなたがサイコパスなら、その遺伝的特質を社会を良くするために使わないといけないということです。
サイコパスでなくとも、自分がコンプレックスに感じるようなネガティブな性質は、絶対に人間に必要なものなので、強みに変えて人間全体のため、あるいは自分のために使うべきです。
一見、ネガティブに見える特徴でも意味づけの仕方で大きな強みになる、そのように人間は作られている。ということが僕が一番主張したいことです。
世の中で悪いと思われている性質は一見すると良いものだったりします。
もし、自分がコンプレックスに思う点があるならそれはよく探せば社会の強みなので、落ち込む必要はありません。
いつだって社会を変えてきたのは、大きなコンプレックスを持っていた人間です。
(時としてはサイコパスでした。)
そんな貴重な能力を間違った方向に使ってはダメだなと思ったんです。
以上、熱くなりすぎました。。